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斉藤様
批判的意見に耳を傾けていただいたばかりでなく返信をいただけたということに安堵を覚えております。
>品性とは「(道徳的な面から見た)その人の性質、性格」とあります。礼儀作法をはるかに超えたものだと私は理解しています。
私も礼儀作法が全てとは考えません。あくまでその第一歩、入り口の部分であると思っています。その上で
>>家庭教育あるいは躾によって習得されるものです。
と述べたつもりでおります。
学校教育の前の段階としての家庭教育について聊かの思いがあっての発言です。
学校教育の目的として「人格の形成」があることは承知しておりますし
その重要性に身が引き締まる思いでおります。
(学生諸君にはどのように受け取られているか、心許ない部分はありますが)
>学校教育の目的は、知識の習得よりもあくまで児童・生徒の品性向上をはかり、社会に有用な人物を育てることではないのでしょうか。
そのためにも正しいコミュニケーション等々の学校以前の基礎の重要性を強く感じます。
>>「科学的知識」が品性を損なうなどというのは飛躍ではないでしょうか?
という発言は、私の読解力不足であったようです。「科学的知識」そのものは品性を育むためには直接的には役に立たない、というような認識で宜しいでしょうか?
知識の量よりも、知識を受け入れて咀嚼し消化するための訓練が重要だと思います。品性向上には道徳が重要であることは否定しませんが、「考える」能力もまた重要な要素であると思います。先頃のテレビ番組における「科学」の名を借りた捏造情報を鵜呑みにしてしまうというのは、「考える」能力の欠如とでも言うべきもので、これは品性(性質、性格)が良い、とも人格が完成しているとも言い難いと思うのです。
>人は「神によって目的を持って特別に造られた価値ある存在」というのが、創造論者である私の定義です。
おそらくこの部分が最も私との相違する部分であろうかと思います。
>進化論には、人生の目的はありません。
これは正しいと思います。が、それは
>人は、神によらず、無目的に登場したのですから。
だとは思いません。「進化論」は人生の目的を述べるための論ではないからです。「相対性理論」や「量子論」、あるいは「ピタゴラスの定理」等と同様の「理論」であるからだと考えます。「相対性理論」に人生の目的はありますでしょうか?
その意味で
>進化論そのものには、人を善に導く要素も人生の意味もないと言うことです。
という意見に反論はありませんが、そのことを以って価値が無いとは思いません。
>進化論はナチスによって利用され、ユダヤ人迫害を正当化しました。人種差別にも利用されました。
これが明らかに誤った(あるいは恣意的に捻じ曲げられた)解釈であったことは既に多くの人の知るところです。少なくとも進化論者が主張したものではなかったものと理解しております。この事例についてはむしろ「宗教的」であったと私には思えてなりません。
私は、進化論は「善を行う要因にはならない」かもしれませんが「悪を行う要因に」もならないと思います。
さらに言えば、進化論は神を殺すための道具ではないのに、そのように使おうとした者がいたということだと思います。
>>私は自然科学教育の目的は自ら考える能力を身につけることだと考えております。
>確かにそれは大事なことです。しかし、教育に関わっておられるのであるならば、子供達のためにすべきもっと大事なことがあるのではないのでしょうか。
>それは、人生の意味を教えることです。
それはとても大切なことだと思いますが、「自然科学」についての教育が直接的に担うものではないと思います。
私には、他人様に人生の意味を教えることなど出来ません。私自身がまだ人生の意味について日々考え続けているからです。人生の意味も価値も自分で見つけるものであろうと思っています。そのために先達の言葉に耳を傾け、後の世代のために語ることを通じて「人生の意味を考えることを教える」ことしかできないと思っているからです。これは私がクリスチャンでなく仏教徒であることに由来するのかも知れません。人生の意味も目的も他者が決めるものではないだろう、自分の価値は自分で高めるべきものだろう、と思えてしまうのです。
(念のため申し添えますが、これは神の存在を云々するものではありません。)
だから、「人生の意味を考えるための一助としての自然科学教育」、ということをおっしゃっておられるのであれば賛成です。
>子供達に生きる力を与えることが今求められています。
私は「教師」ではありませんが、私に可能なことならば生きる力を与える努力をするに吝かではありません。そしてそれは知識でできることではないというご指摘はその通りかもしれません。
生きる力とはどのようなものでどうすれば与えることができるのでしょう。
私は生きる力とはすなわち生きようとする意志の力であろうと思います。「絶望」が「死に至る病」であるのなら、本人が「絶望」と対決し、捻じ伏せるか手懐けるかして生きようとする意志の力を揺り起こすよりほかに無い。それを支援するための努力は惜しみません。その手段は宗教でも哲学でもよいのです。ただ宗教には可能でも自然科学には荷が克ちそうです。
>もし、教えている生徒が自殺したとしても
学生であろうと知人であろうと、自殺という形で逃避されてしまって後に残された者には、どうしようもない憔悴感と喪失感、悔恨と謂れない自責の念しか残りません。命を救えなかったという事実の前にはどんな知識も無意味です。以下もそうですが、このような仮定の話は意味が無いと思えます。「人生の意味を正しく知っていれば自殺などしない」というのは循環論ではないでしょうか?
>私なら、何を教えるにしても、「心を持った人」を育てることを第一にしたいと思います。
これには反駁するところはありません。
>教師は単に知識や技術を伝達する職業ではありません。教師は「心を持った人物」を育てる職業です。
そう思います。だからこそ「自分で考えろ」と私は言います。「考える」という行為は「理解」し「自立」するための作法であると思うのです。
「理解できるまで考えろ」
「考えるための材料は与えるが、更に詳しいもの、或いは他にも違う材料が無いか、自分で探して来い」
「こちらの内容が間違っていると思うなら、自分の考えを自分の言葉で述べてみよ」
「他人の見解にも耳を貸せ。そしてきちんと聞いて、それから更に考えろ」
そして「思考停止するな」・・・
だから私が育てたい、理想とする生徒の姿とは、
「しっかりと自分の考えを持って、等身大で世界に向き合う学生」
ということになるでしょうか。
私の専門分野は農業であり、品種改良や防疫学等々に関連して「遺伝」や「進化」についてとりあげる機会がありますが、進化論が真理で絶対的に正しい、生物はこのように進化した、といったような断定的な講義は、私はしませんし、そんなことを言い切れるものではないということは「正しく」認識し、学生にもそのように話しています。
思いつくままの書き込みで、まとまりの無い文章でありますが、「自然科学」にしろ「進化論」にしろ、人生の意味や目的を問うためのものではないということ、しかし、どのように生きるかという意味で「品性」を育むための(あるいは実りある「生活」のための)一助にはなり得るということが、今の私の考えです。
長文失礼致しました。
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