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>今は家庭教育の不十分な生徒が多くなっているのではないかと思います。それは、それだけ学校での教育が重要になっていることを意味します。
>だからこそ、教師には、教える教科だけを考えればいいと言うのではないと私は思うのです。
基本的には同意ですが、「学校」がどこまでそれを行うべきかについては、自ずと限界もあろうかと思います。むしろ「教師」がそれをするのではなく、「大人」たちが行うべきかと思います。
>私たち創造論者が創造論を受け入れるのはその「考える」能力がないからだとお考えですか。
今回の書き込みにおいて創造論を云々することは私の意図するところではありません。もし私の書き込みがそのように読めたとしたら、私の文章力によるものですから、お詫びします。
今回の論点は「自然科学教育」であろうと意識しております。此方の掲示板の趣旨は承知しておりますが、配慮が足りなかったということでしょう。
>たとえば、生命の起源について、神が創造したと考える方が、生命が自然発生したと考えるよりもはるかに合理的だと思います。
この点については少なくとも「進化論」は生命の発生についてはなんら述べていない、と反論させていただきます。「進化論」が神による生命の創造を積極的に否定したことはありません。それは「進化論」では否定も肯定もできないことだからです(進化があったという主張そのものが「創造論」と相容れないものであるという論調は理解しておりますので、その部分についての議論は回避させていただきます)。「進化論」は限界のある理論ですが、自然科学としては当然のことであるといえます。
>確かに進化論は人生の目的を述べる論ではありません。しかし、人間の起源については、進化か創造か、目的ありかなしかのどちらかです。そして、明らかに進化論の立場は、人間は無目的に誕生したというものです。進化論では人生の目的を述べることができないと私が言ったのはそういう意味です。
これに対しいかに述べることは私個人の考え方であり、進化論者の考えでないことをはじめにお断りしておきます。
私はヒトという種が誕生したときに何の目的も無かったとは思いません。そしてそれはヒト以外の全ての生物種についても同様です。全ての生命は、生きるために変化しつづけ、それが進化に繋がってきたのだと思うからです。「生きる意志」が進化の原動力となって全ての生きる(そしてかつて生きてきた)生物種を生み出し、ヒトという種を生み出したのだと思います。そしてヒトは生き続けるためにさらなる進化を遂げることができるかもしれないのです。これは個々の「人生」とは別ですが、私がいつか来る次の世代の種に向けてバトンを受け渡すランナーかもしれないという思いは、私がここに在って生きている意味の一つとして、不足なものではありません。
(あくまで個人的なものです、念のため)
ですから私は「進化」は「生きる」ことを目的とした生命の作為であり、全ての生命は「生きる」ことを目的に生まれるのだ、ということもできると思うのです。(進化論を研究する方々からはラマルク的だと批判されるかもしれないなぁ)
>現代の進化論はその理論の前提として、創造主なる神を抹殺しなければ成立しないと思います。
上で述べたように、生命の発生については進化論の対象外です。したがって「神による生命の創造」と「進化」を全く抵抗無く受け入れる人は少なくないはずです。ただ、6日間の天地創造とは真っ向から対立せざるを得ませんが、それはこと進化に限っての話ではありません。
>>私には、他人様に人生の意味を教えることなど出来ません。
>それは人生の意味を考え悩む生徒にとって、大きな損失となるのではないのでしょうか。
私が「他人に人生の意味を教えることが出来ない」のは私の未熟によるものですが、少なくとも共に考えることは出来ますし、教えることが出来ないから放棄するというわけではありません。励まし、手を差し伸べ、自分の経験を語ることもするでしょう。私には「教える」という言葉が「私の倣岸」に思えたと解釈いただければ幸いです。
>>生きる力とはどのようなものでどうすれば与えることができるのでしょう。
私は生きる力とはすなわち生きようとする意志の力であろうと思います。
>私は「生きる力」とは、「愛されている実感」であり、「自己の受容性」だと思います。
そうですね。それもまた「生きようとする意志」を喚起する材料に成り得ると思います。
>もし自分の意志の力で生きていけるのであれば、簡単なことではないのでしょうか。
乗り切ってしまえば簡単なことと言える部分はあると思います。コロンブスの卵には一面の真理が含まれているでしょう。恥を忍んで申し上げるなら、私もかつて死を思ったことがありました。死を思いつつ、結局生きている・・・自分の生命が死を望んでいないのだということが理解できてしまえば、後は簡単でした。(逆説的ではありますが)死ぬことはいつでも出来る、嫌でもいつかは必ず死ぬ。そんな風に切り替えることができました。それまでは生きてやる、と。
>そうであれば自殺したものは「意志が弱いもの」というレッテルを貼られ、敗者であり、社会の不適者となるのではないのでしょうか。
自分の意思が強い、強かったなどとは思いません。自殺という行為を完遂するには、(それが多分に自棄的なものであるにせよ)それなりの意思の力を必要とするわけで、「意思が弱い」とは一括りにはできないと思います。
しかし、自殺という行為そのものはどうとらえても「逃避」でしかありませんし、その意味で「敗者」であるという客観的評価は免れないと思います。社会の不適者というのは、適応できなかったから悪い、という意味ですか?確かに自殺に走るということは社会に適応できなかった結果ということはできるかもしれませんが、社会の不適者=敗者では無い様に思います。
>こういう考えは、まさに適者生存を認める進化論の考えそのものではないでしょうか。だからこそ、私は、進化論には人を生かす力はないと言いたいのです。
これもよくある誤解と言えると思いますが、「進化論」には「適者生存」という言葉はありません。正しくは「適応放散」と言うべきであり、以下はその意味で述べます。
生存競争の勝敗、という考え方は確かに存在しますが、それは固体と世代を超えた話です。生きようとしたものが生き残るのです。自分で生きる術を模索し「生きる意志」を示して「生命」の力を行使したものが生き残ってきたのです。「生命」の力とは、外部環境を受け入れ、あるときこれに働きかけることです。
「適応」を、生き続けて世代を重ねられれば勝者、世代を越えて生き残れなくなれば敗者と考えるなら、最初から敗者であるものは存在しません。かつて勝者であったから敗者になるのです。
まして「適者生存」と「弱肉強食」は(よく混同されますが)別の概念ですね。「弱者」であっても生き残る術はあり、生き残れば「勝者」なのですから。
自殺者は本来は「勝者」であったのに、それを自分で放棄したのです。「適応」できなかったのではなく「適応」する努力を放棄したのです。本来的に「敗者」であったわけではありません。
> 「あなたは〜」と言うことができるは、そんな人間を創造した方だけです。
私は幸いなことにそう言ってくれる友を得ることができました。が、別に彼が私を創造してくれたわけではありません。もちろん、創造主が彼の口を借りて語ってくれただけなのかもしれません。尤も、彼は神主ですが。
>「あなたは神に愛されている。あなたは神の目には価値ある存在だ。」こうしたメッセージを与える方が、単に「意志を強く持て」というよりもはるかに自殺防止には役立つと私は思います。
これも私の言葉が足りなかったのかもしれません。「意思を強く持て」ではなく、「何がなんでも生きてやる」という意志を示せ、と私なら言うだろう、と申し上げたのです。「自己」を肯定的に受け止めてくれる存在が「生きる力」を導き出してくれることは間違いのないところですし、賛成します。が、その本質は「生きる意志」を自覚することだと思うのです。だからそれを自分の意識の前面に押し立ててやる。「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。それこそ物質と同じでそこに「在る」だけです。強かろうと弱かろうと、関係ないと思うのです。意思が「有る」かどうか、そして生きているからには必ず「生きる(生きようとする)意思」があるのだ、ということを自身で確認することが重要なのだと思うのです。
生きる意味が見つからないのなら、それが見つかるまで生き抜いてみればいいのです。世の誰も認めてくれなくても(造物主は別ですよ)、自分の「生命」は生きようとしていることを知ってほしい。あるいは自分がこの場所に立つまでに積み重ねられてきた歴史、それこそ最初の生命から今の自分まで、「生きる意志」が生命をつないできた数億年の時間のことを考えてみてほしい、と私は告げるでしょう。自分が生まれ生きていくためにあった無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?
>科学は人生の意味を問う「ための」ものではありませんが、結果として人生の意味を問うことになります。科学は「どのように生きるか」という問いに無関係ではいられません。
>なぜなら、科学を学ぶものは、サルではなく、人生の意味を考える人間だからです。
意地悪な言い方をすれば、サルたちが人(猿)生の意味について考えていない、などとは誰にも断言できない、と考えることが「自然科学」の発想であるのです。もちろん、サルたちがどのような思索を行っていようと我々には直接の関係は無いわけですが、そのように考えてみることで「彼らでさえ悩みながら生きるために頑張っているかもしれないのに、我々がそれを疎かにして良い筈がない」と考えることもまた可能だと思うのです。
>なぜ勉強するのか、自分は生きていて意味があるのか、人生の目的はなにか、を考え悩む中学高校生に、科学を教えるときには、こうした彼らの持つ本質的な問いに答える絶好の機会だととらえて、科学を通して人生についても語るべきだと私は思います。
「科学」を、「人生を考えるための材料」として使うことはできても、「科学」で人生を語ることは適当でないように思います。何故なら「科学」には必然的に(未発見の)錯誤や誤解が含まれるからです。教育に携わるからこそ、その立場を堅持しなければならないと思っております。それを踏まえて用いるなら、「自然科学」はそれを学ぶものの人格形成に有意に働くものと思います。何より「自然科学」はヒトをさえその内において(数多ある構成要素のひとつとして)、巨視的視野で相対的にとらえてこそ価値のあるものだと思うのです。外面から存在の意味を考えるときに、その実験の手法や論理展開の技能技法は役に立つと考えます。
無論それのみで人格が完成することは、残念ながら(確信をもって)あり得ませんから、哲学や道徳など、内面から「考える」ことと合わせて、両輪として進むことが理想だろうと考えます。ですから、「自然科学教育は人格形成に無意味である」との意見には賛成できないと考えます。
拙速とならぬよう、自分の考えを言葉にするのに時間がかかってしまいました(結果としては拙遅とでも言うべき有り様ではありますが)。ともあれ、長文ならびに連投、失礼致しました。
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