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吉野様へ 2

 投稿者:斉藤愛輝  投稿日:2007年 5月24日(木)00時13分53秒
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  >生命の発生については進化論の対象外です。したがって「神による生命の創造」と「進化」を全く抵抗無く受け入れる人は少なくないはずです

 最初の生命こそ神が創造したが、その後は46億年の進化によって生命は多様になったと主張する有神論的進化論者の存在は存じています。数の上から言えば、少なくないどころか、私のような文字通りの6日間での創造を信じるものよりも多いと思います。しかし、私は彼らの主張は、聖書から見て明らかな誤りだと考えています。その理由は、このHPで何度も書いていることですが、有神論的進化論は、イエス・キリストが人間が犯した罪をあがなうために十字架で死んでくださったという聖書の言葉を完全に否定するからです。進化論によれば、人類登場以前に他の生物の死があります。聖書によれば、死は罪の結果です。したがって、人類以前の死は、最初に罪を犯した生き物は人間ではないということを意味します。それは、キリストは、人間の侵した罪のためではなく、他の生き物、たとえば魚の犯した罪のために死なれたことになってしまいます。しかし、これは聖書の内容とは異なります。有神論的進化論者は、進化論を受けいるために、聖書の解釈を変えてしまいました。彼らの述べる神は、「創造主」ではあっても、「愛の神」ではありません。争いと死と滅亡とを良しとする「冷酷で残酷な神」です。

 ダーウィンは、もし聖書のとおりならば神は愛であるから自然に残酷なところはないはずだ。しかし、実際には多くの残酷なものがあり、それゆえに愛の神はいない、聖書の記述は誤っていると考え、聖書の述べる6日間の創造を否定するようになりました。進化論は、死を前提とする以上、神の愛をも否定するのです。

 吉野様に知っていただきたいことは、有神論的進化論者が認める神は、聖書を文字通り信じる創造論者が考える神とは、別物であるということです。聖書を深く学ばなければご理解できない部分かもしれませんが、人間のために命を捨てる愛の神と進化論とは決して両立できないということを知っていただければ幸いです。

>自殺に走るということは社会に適応できなかった結果ということはできるかもしれませんが、社会の不適者=敗者では無い様に思います。

 敗者でなければいいのですが、現実にはどうでしょうか。私にはきれいごとを言っているように思います。吉野様ご自身がおっしゃるように「自殺しようとした」と言うことさえはばかられる社会です。誤解を恐れずに過激なことを言えば、進化論に基づくと自殺者が増えたほうが、より生きようとする意志の強いものだけが生き残り、競争社会に適応した勝者が増えてよい、となるのではないでしょうか。自殺者は、社会に適応する努力を自ら怠った怠け者であって、成果主義の社会においては、そんな怠け者は価値がなく、淘汰されて当然だということになるのではないでしょうか。


>「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。

確かのそのとおりです。ただ、生きる意志は生き物すべてが持っていますが、自殺は人間だけといっていいでしょう。人間だけが、生きる意志をなくすのはなぜなのでしょうか。「生きる意志」自体、神から与えられたものです。神は人間にのみ、神を認める知性を与えられました。動物は意思というよりも本能によって、生存しようとすると思います。しかし、人間は本能よりも理性が優先します。ある人は、人間と動物の違いは宗教だといいました。それゆえに、人は神を見失うときに、自分の存在意義を忘れ、自分の生きる意味を見失うのだと思います。なぜ自分には生きようとする意思があるのか、そのことを問う時に、創造主を見出すことができるのではないかと思います。

>幸いなことにそう言ってくれる友を得ることができました。

 それはよかったですね。吉野様は幸いでしたがほかの人もそうとは限りません。誰も言ってくれないときにどうしたらいいのでしょうか。親からも友人からも裏切られ、見捨てられて人が信じられなくなった人がいます。重罪を犯し、死刑判決を受けた人もいます。世間からは「早く死んでお詫びしろ」といわれることでしょう。そういう人々に対して、どのように「死ぬな。生きる意思を持て」「生きる価値がある」と言えばいいとお考えですか。
 創造論者は、たとえどんなに人の目には価値が無いように見えても、神の目には価値があることを述べることができます。人は信じられなくても神は信じられます。創造主は、生きる意思を失ったものに意思を与え、価値のないところに価値を作り出し、生きる希望と喜びを与えられます。創造論においては、本人がいかに生きようとする意思を持つかは問題でありません。その意思が無くても弱くてもかまいません。生きる意思は彼を目的を持って作られた創造主によって、与えられるものだからです。「意思を持て」といって持つことができるのは、幸せなケースに限られるのではないでしょうか。

>最初の生命から今の自分まで、「生きる意志」が生命をつないできた数億年の時間のことを考えてみてほしい、と私は告げるでしょう。自分が生まれ生きていくためにあった無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?

 私にとっては無意味です。もし、命をつなぐことに生きる意味があるというのであるならば、某大臣の発言ではありませんが、子供を産まない女性には生きる価値がないということになるのではありませんか。たとえあったとしても、それは命をつないだ女性と同等のものでしょうか。また、無数の命の「生きる意思」に思いを寄せるなら、人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違いをうまく説明できるのでしょうか。命の生きる意思に逆らって命を奪うことが許されるならば、価値のない人間の命だって奪っていいはずだと言われるのではありませんか。なぜ人の命を奪うことがいけないのか、進化論に基づく納得いく説明を私は知りませんので、ぜひ教えてください。

>「自然科学教育は人格形成に無意味である」との意見には賛成できないと考えます。

原点に戻って考えますと、エレン・ホワイトは科学教育そのものが無意味だといっているのではなく、「この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります」と言っているだけですので、誤解なきようお願いいたします。そして、科学教育よりももっと大事な目標とは「子供達や青年たちの品性を形作って、キリストの像を回復すること」です。
 聖書には「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)という有名な言葉があります。ホワイトが言いたいのはまさにここです。科学教育を受けることで、聖書を否定し、神を信じなくなるくらいだったら、やる意味が無いということです。これは科学に限りません。文学であろうと、音楽であろうと、語学であろうと、それが魂をイエス・キリストから引き離すのであれば、何の意味も無く、やらないほうがずっとましだということです。こうした理解は、人はみな死後神の裁きを受けて、永遠の命を得るか、永遠の滅びを受けるかのどちらかだという考えからきています。この世の命ははかないものですが、神が約束している命は永遠です。この栄誉を得ることに比べれば、ノーベル医学賞などはごみ同然です。
 私はホワイトの言葉に賛成するので、吉野様にも、教育の目的や人間の命について、また人生の目的について考えていただきたく、長々と書かせていただきました。創造論者が進化論になぜ反対するのか、創造論教育の目標がどこにあるのかなどを理解していただければ幸いです。
 
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