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申し訳ありませんが、宗教論争をすることは私の意図するところではありません。
私が言いたいのは「自然科学」と「神への信仰」が必ずしも互いを排斥するものではないということです。
>ダーウィンは〜聖書の記述は誤っていると考え、聖書の述べる6日間の創造を否定するようになりました。
ダーウィンの聖書に対する考えは存じません。
ですから6日間の創造を否定した背景にそのような考えがあったかは、現時点で私にはなんとも判断のしようがありません。
>進化論に基づくと自殺者が増えたほうが、より生きようとする意志の強いものだけが生き残り、競争社会に適応した勝者が増えてよい、となるのではないでしょうか。
それは誤解です。
生きようとする意志が「強いか弱いか」が問題なのではありません。
「有るか無いか」が問題だと申し上げたつもりです。
>自殺者は、社会に適応する努力を自ら怠った怠け者であって〜淘汰されて当然だということになるのではないでしょうか。
自殺者は「社会に適応する努力を自ら怠った怠け者」ではなく
「社会に適応する努力を自ら放棄した逃避者」だと思う、と申し上げております。
淘汰されたわけではなく、自分から逃げたのだと
(自殺者に対して過酷な言い方であることは認識しています。
誤解の無いように願いたいのですが、死んで当然などとは思っておりません)
まして進化論はそのようなことをいってはおりません。
>「生きる意志」無く「生きる」ことは有り得ません。
>人間だけが、生きる意志をなくすのはなぜなのでしょうか。
>神は人間にのみ、神を認める知性を与えられました。動物は意思というよりも本能によって、生存しようとすると思います。しかし、人間は本能よりも理性が優先します。
余談ですが、動物に知性が無いと断言する根拠はなんでしょう?
我々が理解する知性とは違うかたちの知性が存在する可能性を否定しなければならない理由がわかりません。
「本能よりも理性が優先します」というのは、
本能だけでは「生きる意志」を持ち続けることができない
=理性が「生きる意志」を損なう、あるいは「生きる意志」を失った「理性」が「自殺」という行動を促す
という意味に聞こえます。
それとも、
「特別な生きる目的なしに生きることは動物と同じだから意味の無い生だ」
と仰せなのでしょうか。
誤解を懼れずにいわせていただけるならば、
「生きる目的を失った」という甘えた理由(そしてそれは、往々にして思い込みに過ぎない)で死を選ぶ(あるいは死を望む)というのは、
確かに人間だけといっていいかと思います。
私などは、斉藤様がおっしゃるとおり、「生きる意志」とは「生存本能」に等しく、
そしてそれこそが文字通り神に与えられたものといえるかも知れない、と思います。
>どのように「死ぬな。生きる意思を持て」「生きる価値がある」と言えばいいとお考えですか。
「生きる意志を持て」は「生きる意志に気づけ」と言い改めさせていただきましょう。
>創造論においては、本人がいかに生きようとする意思を持つかは問題でありません。その意思が無くても弱くてもかまいません。生きる意思は彼を目的を持って作られた創造主によって、与えられるものだからです。
私はいかに「生きようとする意思を持つ(意志に気づく)かこそが重要だ」と思っているということです。
それが神に与えられようと、あるいは与えられたものだと気づこうと、自分で見出そうとどちらでも構わないと思っています。
いま生きている瞬間にそれが存在しているのだということに気づくことが重要なのであって、その筋道やテキストは問題ではないと思います。
生きている限り、人は変わることが出来るのですから。
(「死刑判決を〜」云々は問題がまったく別、論点が違いますよ。)
>>最初の生命から今の自分まで、〜無数の命たちの「生きる」意志に思いを馳せる事は無意味でしょうか?
>命をつなぐことに生きる意味があるというのであるならば、〜子供を産まない女性には生きる価値がないということになるのではありませんか。
柳沢大臣のことでしょうか?しかし「子供を産まない女性には生きる価値がない」などという発言は無かったと記憶しますが・・よろしければ何方の発言かお教えください。
「命をつなぐ」というのは子を産むという意味合いもありますが、私の中ではもう少し大きい意味で捉えています。私の命が誰か他の命を育むため、あるいは新しい命を産み出すために直接間接を問わず役立つなら生きる意味は十分にあるというような意味です。
逆に命を次の世代につなぐことが出来ないのなら、現在の生にどのような意味があるでしょう。
>人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違い
これは本質において同じ、と考えております。
どちらも究極的には人のエゴによるものだと思いますので。
もちろんその行為の是非はまた別の次元の話です。
>価値のない人間の命だって奪っていいはずだ
価値の無い人間が存在するのなら、そう言うことも出来るかもしれません。
しかし私はそんな人間は存在しないと思っています。
誤解を懼れずに申し上げるなら、
これまでの歴史において「価値の無い人間の命を奪っていい」と言ってきたのは「宗教」であったかと思います。
>人の命を奪うことがいけないのか、進化論に基づく納得いく説明を私は知りません
そんな説明は存在しません。
進化論にそのような説明が必要であるとも思いません。
「進化論(あるいは自然科学)が人の命を奪うことを是としているわけではない」ということはご承知いただけますか?
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