|
|
お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
>「大人たちが、子供たちの品性の健全な成長を阻害しかねない現状」を変えるには
まず自分自身が少しでも、との思いはあります。
私の誤解のようでした。安心いたしました。
>いずれにしても生命の起源についてはまだ定説と言える「科学的理論」は存在しておらず、自然科学としては殆ど謎のままと言っていいものと認識しています。
私の知る限りでは、生命の起源についての説明はどれも一言で言うならば、「奇跡」によるものです。確率的には、決してあり得ないことが起きたからです。もし、奇跡を受けいるれるならば、奇跡を起こす存在を認める方がはるかに合理的な考えなのではないでしょうか。生命の起源は謎だとお認めになりながら、吉野様が創造論を完全に否定されるのは、多くの人が言うように、創造論が反証不能の神を前提に話を進めるからですか。
もし、そうであるならば、「科学」とは何かという定義の問題を考えなければなりません。近代科学の父と呼ばれるニュートンは敬虔なクリスチャンであり、神がこの世界を造ったという意識の下に、自然を研究し、万有引力を発見したことは既知の事実です。ニュートンに限らず、進化論が登場する以前は、ほとんどの科学者が創造論を受け入れていたといって良いでしょう。つまり、神という反証不能なことを前提とした科学者たちによって、近代科学は発展してきました。神を前提とすることになんの問題もなかったのです。さらにいえば、この神を前提とする考えによらなければ、近代科学は進化できなかったとも言えます。この世界が合理的に説明できるのは、合理的に神が創造したためであると、彼らは考えたからです。
しかし、ダーウィン以後「科学」の定義が急速に変わりました。進化論を認めるためには、神は邪魔者となったからです。科学が神を追い出したのではなく、進化論が神を除いたのです。
>「神によって創造されたという創造論を積極的に否定している」のではなく、
「創造論が自然科学的に正しいとすることを否定している」のだと認識します。
「創造主を前提とするわけにいかない(というよりしていない)」というのはその通りだと思いますが、それが直接的に「神の存在の否定」ではないと認識しております。
これも「科学」とは何かという定義によるのではないでしょうか。また。「神」の定義にもよります。私のような聖書を文字通り信じるものの「神」理解と、吉野様を初めとする進化論者の認める「神」とは大きく異なります。ですから、進化論者が創造論者と話すときには、もっと宗教を学ぶ必要があると思います。創造論者は進化論を誤解しているので、進化論を正しくきちんと学んでほしいというようなことがしばしば言われますが、創造論者に言わせれば、進化論者にももっと聖書を正しく理解して欲しいと願っています。
>自然科学は対象範囲を明確にするものです。神(創造主)は自然科学の対象範囲の外におわしますので。
神は科学の対象外にいるというご指摘はその通りです。しかし、それゆえに、神を前提にすると科学ではなくなると言うのであるならば、近代科学の成立を説明することは不可能です。進化論者のご意見は、科学の歴史を無視した説明ではないでしょうか。
>ですから進化に「神の意思」や「神の目的」がある、という「お話」を否定する気はありません。「科学的な理論」としては不完全(というより不成立)だというだけです。
私にとっては、神の意志も目的も明確な事実なので、「お話」ではありません。事実に基づくことなので、科学の対象になると考えているのです。
>「お話」がそれとして成立するために科学は必要ないでしょう。
そして自然科学からすれば、事実として範囲外です。
個々が本質的な理解の違いですね。創造論者は、「事実」としてとらえているので、科学なのです。ニュートンたちも、「お話」ではなく「事実」として創造を受け入れていました。吉野様の考えによるならば、ニュートンらは科学を研究したのではないことになります。
>申し訳ありませんが、宗教論争をすることは私の意図するところではありません。
私が言いたいのは「自然科学」と「神への信仰」が必ずしも互いを排斥するものではないということです。
宗教論争をしようとは私も思いませんが、「科学」と「神への信仰」を論じようとするならば、宗教を学ばなければできないと思います。聖書をきちんと学ばずに、創造論を批判する進化論者は、進化論を自分の勝手な思いこみで否定する創造論者と同じことではないでしょうか。聖書を学ぶ気はないとおっしゃるのであるならば、それまでですが、せっかくの機会ですので、お近くの教会で聖書を学ばれることを私はお勧めいたします。
|
|