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初めに私はこう書きました。
「良心と教師たちに与えられている偉大な働きは、保護している子供達や青年たちの品性を形作って、キリストの像を回復することです。科学の知識は、この偉大な目標に比べれば無意味なものの部類に入ります。しかし、真の教育は、正しい品性の発達を助けます。・・・自分たちの将来だけではなく、与えられている子供達が永遠の命を得るか、あるいは永遠に失われるかを自分たちが決定している事実に気づくならば、大きな挑戦が目の前に置かれていることを悟ります。」エレン・ホワイト著「次世代に続く信仰」p55
この文章から吉野様とのやりとりが始まったのですが、吉野様との考え方の違いの原点は結局のところ、イエス・キリストをどう見るかということに行きつきます。聖書はこうあります。これを言ったのはパウロという人です。
「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリピの信徒への手紙3:8-9
ホワイトの言葉は、このパウロの言葉の延長上にあります。ホワイトの言葉を言い換えると、「キリストを知ることに比べたら、科学を学ぶことは塵あくたと同じだ」となるでしょう。これに賛成するか反対するかは、イエス・キリストを知る価値がどのくらいのものかという価値判断によります。素人の目には高価なものに見えても、専門家が見れば真っ赤な偽物で安物という場合があります。その逆もあり、専門家が高い評価を下しても、素人の目にはごみ同然と映ることもあります。聖書に基づく創造論を受け入れる人びとは、科学の専門家ばかりではありませんが、イエス・キリストの価値を知っている人びとです。ですから、イエス・キリストをどう評価するのかはとても大切なことになります。創造論は聖書と切り離して論じることはできません。イエス・キリスト抜きの創造論はありません。したがってたとえ創造論を論じても、イエス・キリストが語られなければ創造論も塵あくたと同じ事です。
吉野様に限らず、創造論は疑似科学だと思いこんでいる方々に、創造論から目を離しイエス・キリストについて改めて考え直していただければと思います。イエス・キリストのすばらしさがわかれば、創造論についても理解でき、信じることができるようになると思います。
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