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>キリスト教には、「大事にする命」と「大事にしなくても良い命」があるように思えてならないのです。
人間と比べるとき、動物は相対的に「大事にしなくてよい命」です。だからこそ、神は人間に動物の血を流し、動物の命を奪っても人間が生きることを許しました。「 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(創世記9:3)。しかし、神はだからといって、動物の命を粗末にすることを禁じ、動物に対していたわりを持つこと要求しました。
十戒の第4条で、神は動物にも週に一日休みを与えるように命じています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:10 )
また「同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない」(申命記22:4)。「 道端の木の上または地面に鳥の巣を見つけ、その中に雛か卵があって、母鳥がその雛か卵を抱いているときは、母鳥をその母鳥の産んだものと共に取ってはならない。必ず母鳥を追い払い、母鳥が産んだものだけを取らねばならない」(申命記22:6ー7)とあり、動物の命を大切に守ることも要求しておられます。このように、聖書は動物の命も大切にするように言っています。
>キリスト教には虫供養や牛供養の発想はあるでしょうか。どちらが命を大切にしているのでしょうか。
一般的に言えば、動物愛護の精神は日本よりもキリスト教文化の方が盛んなのではないでしょうか。例に挙げている、虫供養や牛供養は、動物愛護よりも、輪廻転生の概念から、虫や牛の背後に人間を意識するからではないのでしょうか。逆におたずねしますが、それでは、動物愛護のみならず環境保護、自然保護についても、日本仏教の方が、キリスト教よりも熱心だという客観的な証拠があるのでしょうか。
>神が創造した地球の生態系の中ではゴキブリの価値も認められているでしょう。
そのとおりです。神は無価値なものを造られるほど愚かではありませんから。
>そのゴキブリの価値を自分の価値基準で判断して排除する(殺す)のはエゴでしかありません。
そう言いきれるのであるならば、牛を殺して食べるのもエゴになるのではありませんか。そうなれば、人間が生きること自体がエゴとなり、優しい人ほど生きる意味を失うのでありませんか。吉野様はなんでもエゴを理由にしたいようですが、キリスト教の本質は、十字架の死に表された自己犠牲で、エゴの反対です。「友のために命を捨てることよりも大きな愛はない」とも言っています。クリスチャンは動物達の犠牲の上に自分の命が与えられていることを覚え、供養するのではなく、動物を与えてくださった神に感謝するのです。プレゼントそのものではなく、プレゼントをくださった方に感謝するのが人としての礼儀であるならば、神に感謝することこそ人としての務めではないでしょうか。この点を考えると、進化論者の方こそ傲慢であり、感謝を捧げるべき方に感謝を捧げず、礼を欠いているのではないでしょうか。
>ゴキブリに人間と同じ価値があるとは言いませんが、無価値であるとも言ってはならないでしょう。
神は無価値なものを造られません。しかし、生き物の価値は決して平等ではありません。なぜなら、人間だけが「神のかたち」に創造されたからです。そして、人間にすべての生き物を支配することを任されたからです。
>飛躍しないでいただきたいのは、「進化論」によって人間とゴキブリが等価だとは述べていないことです
5/28の発言では、>人間がゴキブリを殺し、牛を殺して食べることと人を殺すこととの違い
に関し、吉野様は「これは本質において同じ、と考えております。」とお答えになっておられます。矛盾のように思えますが。
>「キリストを知ることに比べたら〜」
吉野様はキリストの価値がわからないので、そのようにお考えになるだけのことです。吉野様にとっては、智の方がキリストよりも価値があると思われるのでしょうが、クリスチャンはそうは考えません。世の中のあらゆるものよりも、キリストは価値があるのです。
>ニュートン〜
このページの2006年3月12日以降の野田様とのやりとりをお読みください。
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