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創造か進化か

 投稿者:長谷川寿紀(管理人)  投稿日:2009年10月 8日(木)08時52分51秒
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  A.T.ジョーンズによる説教
 私は今日の午後、進化論という題で話をするつもりです。皆さん方によく注意して聞いていただきたい、そして、皆さん方は進化論者であるのかないのかを自分で見出していただきたいのであります。最初に、私は皆さん方に進化論とは何であるかについて書いてある物を読んでみます。それを聞いていくと、皆さん方は自分が進化論者であるのかないのかおわかりになるでしょう。これらの引用文はすべて、主な進化論者の一人によって書かれた進化に関する論文からコピーしたものです。ですから、その定義と同様に彼がすすめている論議はすべて正確です。

 「進化論は漠然としたものからはっきりしたものへ、単一から多様への少しずつの変容として世界の起源を表し、そのようにして変質させられるべき世界自体にその過程の道筋が内在するはずだと仮定する理論である」。
「進化論はこのように進展とほとんど同意義である。それは、より低いものからより高いものへ、悪いものからより良いものへの変容である。このように進展とは我々の感覚によって判断されるような、存在の内にある、増し加わった価値を指すものである」。

 さて、これら三つの叙述における特殊な点に注意していただきたい。進化論は、より低いものからより高いものへの、悪いものからより良いものへの漸進的な変容として世界の起源を表すものです。そして、この過程は、このように変容されるべき世界自体の中に内在すると仮定します。それは、物事は自分で良くなるということであります。そして、それをより良くする原因はそれ自体であるということであります。そしてこの過程は「我々の感覚によって判断されるような、存在の中の増し加わった価値である」と記されてあります。それは、あなたが、自分がより良くなったとわかるのは、あなたがより良いと感じるからだというのと同じであります。あなたは進展があったことを知る、それはあなたがそう感じるからです。あなたの感覚があなたの標準を規定します。あなたの知覚が、悪いものからより良いものへのあなたの進展を規定します。

 さて、悪いものからより良いものへの進展という事柄において、あなたの感情は何か係わりがありますか。もしあるとすればあなたは何でしょうか。今日の午後ここにいる方々で、その感情によって経験の価値、進展を測る方はみな、進化論者であります。その方が四十年間ずっとセブンスデー・アドベンチストであったとしてもそれに関係なく、その人は全くの進化論者であります。そしてその人のキリスト教一切、宗教の全体は、事実のないただの告白、力のない単なる形式であります。

 さて、私は、べつの方法で何が進化であるかについて読んでみます。そうすると皆さん方は、それが無信仰だということがおわかりになります。そうして、もしあなたが自分は進化論者だと気がつくとき、同時にあなたは無神論者なのだということがわかるはずです。「進化の仮説は、物事の始めあるいは創始に関する多くの疑問に答えることを目標としている」。それは、「我々の父祖と生命の根源の性質に対する古い感情を復興するのを助ける」。

 進化論という教理の設立に対して最も多くのことをなしたこの種の科学の支流の一つは、私たちの地球の過去の歴史における想像できないおびただしい期間という概念を作った新地質学であります。この主題に関する主要なもう一人の著者が言うように、これらのおびただしい想像もできない期間というものは、進化の過程における「人の起源を理解するために必要欠くべからざることなのである」のです。それゆえに、なしとげられてきた進展は、数えることのできない年月を通してであったというわけです。しかしながら、この進展はその発端から現在の状態まで一定しておらず、一貫しておりません。多くのものが上がり下がりしています。大いなる美と均整のある多くの時代があり、そして大変動あるいは爆発が起き、それ以前のようにばらばらになってしまったことであろう、また再び物事のその状態からある過程が始まり、再び作り上げられたのであろう、というのです。多大な時間がこの過程において流れた、そしてそれが進化の過程――下等なものから高等なものへ、悪いものからより良いものへ――なのです。

 ところで悪い状態からよりよくなるというあなたの進展の過程はどのようなものであったでしょうか。「多くの上がり下がり」を通してですか。善――神のものである良きわざ――をするための力をあなたが得たのは、あなたが初めてキリスト教を告白した時から今に至るまで、上がり下がりの長い過程を通してでしたか。時には自分がよくやっており、すべてのことがすばらしく喜ばしく、明らかに大変な進歩をした様に見え、次に何の前触れもなく大変動と爆発が起って、何もかもだいなしにしてしまったのではないでしょうか。それにもかかわらず、そのすべての上がり下がりにもかかわらず、あなたはもう一度努力を始める、そうして長々と続くこういう過程を経て、あなたは今日あるところに至っているのです。そして、そのすべてを「振り返って見て」、感覚によって判断するとき、自分はなにがしかの進歩を残すことができるとあなたは考える、それがあなたの経験ですか。それが、あなたが進歩する方法ですか。

 言い換えれば、あなたは進化論者ですか。言い逃れてはなりません。正直に真実を告白して下さい。というのは、私は今日の午後あなたを進化論者から抜け出させたいのです。そこから抜け出る方法があるのです。そしてこの家に進化論者としてやってきた人は皆、クリスチャンとなって出て行くことができるのです。ですから、もし、私が進化論者について描写するときは、それは大変はっきりしているので、あなたは自分がわかるでしょう。ただわかったと言って下さい――それが自分であると認めるのです――それから神が与えて下さった歩みに従って行くのです。そうすればあなたは完全に抜け出します。しかし、私は率直に申し上げます。もし私が描き出したものがあなたの経験であったなら、もしそのような種類の進展をあなたのクリスチャン生涯において成し遂げてきたなら、あなたは進化論者なのです。あなたが認めようと認めまいとそうなのです。とにかく最上の道は、それを認め、それを止め、クリスチャンになることです。

 さて、さらに別の観点について読みましょう。「進化は、それが続くかぎりは永遠の事柄のように見える」。そしてこのように「仮定することによって」、「創造の概念はそれが適用されてきた生物の領域から排除される」。さて、もしあなたが、神の国に到達することが疑いもないような進展が自分のうちになされねばならないとする基本的な考え方で自分を見ておられるなら、もし、あなたが、それはあなたの内に内在しており、それを正しく働かすことができ、そしてそれを働かすことができた時にはそれを正しく司ってすべてのことがうまくいくようになるだろうと思っているなら ――もし、自分の進歩をこのように期待し、見守り、注目しつづけているなら、あなたは進化論者です。進化とは何かについてさらに読んでみます、「進化の教義が、創造の教義に完全に対立するのは明らかである……。全体として世界の形成に適用されるものとしての進化の考えは、直接の創造的意志という考えに反対する」。

 それが進化論を作った人々によって定義されている進化です――世界が生じてすべてのものがその中にあり、それ自体の内にあるということ、そして、世界にある状態をもたらした原則は、それ自体の内に内在し、存在するすべてを生みだすために十分であるということ。ですから、物事の性質において「進化は創造とは正反対である」のです。

 ところで、世界とその中にあるすべてのものがそれ自体から生じてきたということを皆さん方は信じてはおりません。皆さんは、自分がそのような進化論者ではないことを知っておられます。なぜなら皆さんは神があらゆるものを創造されたと信じているからです。今日この場にいる方々は、神がすべてのもの――世界とその中のあらゆるもの――を創造されたことを信じるとおっしゃることでしょう。進化はそれを認めません。進化には創造の余地はありません。

 ところで、創造に全く公然とは反対しているわけではない、さらに別の進化の観点があります。私が皆さんに先程お読みしたような進化論を作った人々は懐疑論者――信仰のない人――以外の者にはなろうとはしませんでした。懐疑論者というのはまさに信仰のない人なのです。たとえある人が信仰を持とうとしたとしても、実際に持たない限り、懐疑論者(不信心者)です。もちろん「懐疑論者」という言葉は、今日ではずっと狭められています。私が皆さんにお読みした進化論を作った人々はそのような人々でした。しかし彼らがそうした教えを世界に広げた時、クリスチャンであると告白する人々、信仰を持っていると告白する人々、創造を教える神の言葉を信じると告白する大勢の人々がおりました。自分自身で神の言葉を理解しておらず、神の言葉を本来あるべき姿で知っていなかったそれらの人々、彼らの信仰は力がなく、信仰の単なる形式にすぎなかった人々――私はあえて言いますが、それらの人々は芽を出したこの新しいものに引き付けられ、新しい科学に倣って一般的になりたいと望み、しかしまた、神の言葉と信仰の道を全く捨て去りたいとは望みませんでした。彼らには、神なしでやっていける、どこにも創造というものはなかったと言う準備はありませんでした。そこでその人々は、創造者がいるある種の進化論を形作りました。そのような観点が有神的進化論と呼ばれます。それは、何らかのかたちで神が物事をスタートした、がその後、そのものは自分で進展してきている、というものです。神が始めた、そしてその後成し遂げられた一切の事を完了する事は自分でできた、というわけです。とにかくこれは一時の方便でしかありません――見掛けを保つ為のもくろみ――そして「創造論的仮説から進化論的仮説への変換という観点」以外は、本当の進化論者によってはっきりと述べられていることです。それはただの進化論にすぎません、というのは、創造と進化の間に中間地帯というものはないからです。

 あなたがこのような種類の人でないにしても、そういう人は大勢います、セブンスデーアドベンチストの間にさえも――しかし以前ほどに多くはありません。主に感謝しましょう。彼らは、我々には罪をゆるして下さる神がいなければならないと信じ、その神は我々を正しい道にスタートさせてくださるが、その後は怖れおののきつつ自らの救いを達成しなければならないと信じているのです。したがって彼らは常に恐れおののいていますが、どんな救いもなされません。というのは、彼らには彼らの内にあって絶えず働いて「願いを起こさせ、かつ実現に至らせ……(それを)よしとされる」神がいないからです(ピリピ2:12、13)。

 さて、ヘブル11:3には、この世界が「神の言葉によって」造られた――一つにされ、調整され、建てられた――こと、「したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではないこと」を悟るのは、信仰によってであると記されています。我々のいる地球は岩で造られたのではなく、人間は猿、尾なし猿、また「失われた環」から造られたのではなく、なおまた尾なし猿、猿、また「失われた環」はオタマジャクシからできたのではないし、またオタマジャクシは最初に逆のぼればもともと原形質から造られたのではないのです。ちがいます!「この世界は神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではない」のです。

 ところでなぜ、見えるものは現れているものから出てきたのではないのでしょうか――それは、ただそれらを作る物が現れてはいなかったからです。そして、それらのものが現れていなかった理由は、それらの物は全然存在していなかったからです。それらは存在していませんでした。世界は神の言葉によって造られ、神の言葉がその特質です。神の言葉は、その言葉が語られると事物を存在させるばかりでなく、そのものを作る材料とか、そのものを構成する物をも生じさせるという特性を持っています。

 皆さんは、もう一つの聖句をご存じかと思います。「もろもろの天は主の言葉によって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた……主が仰せられると、そのように……なったからである」(詩33:6‐9)。ここで私は皆さんにおたずねします。みことばが語られてから、物事がそのようになるまで、どのくらい時間がかかりましたか。物事がそのようになるまでどのくらいの時間が過ぎましたか。〔声;「時間はかからなかった」〕一週間もかかりませんでしたか ――〔声:はい〕。六つの長い時の期間もありませんでしたか――〔声:はい〕。創造主を認めてさえもなお、進化論は数えきれない時代、または「六つの長いはっきりしない時の期間」が、神が仰せになってから後、見えるものの形成までに過ぎ去ったということを保持しています。しかしそれは進化であって、創造ではありません。進化は長い過程によります。創造は語られた言葉によります。

 言葉を語ることによって神が世界を創造されたとき、「光あれ」と言われました。ところで「光あれ」という言葉と光が生じるまでの間にどれくらいの時間を経たでしょうか。私はこのことを皆さんに正しく理解していただきたいのです。そうすれば皆さんはご自分が進化論者であるのか創造論者であるのかがおわかりになれるからです。このことについてもう一度質問させてください。みことばが語られた時と、その事実の実現との間に六つの長い期間がありませんでしたか。皆さんは、はいとおっしゃいます。一週間もなかったのですか――はい。一日もありませんでしたか――はい。一時間もありませんでしたか――はい。一分間もありませんでしたか――はい。一秒でさえも、ですか――はい、全く。神が「光あれ」と仰せになった時と、光の存在との間には一秒もありませんでした。〔声:「みことばが語られるやいなや、光がありました」。〕はい、そうだったのです。私はこれを厳密に繰り返します。皆さん方の頭の中にこのことが固く据えられるように、私がさらに質問をおしすすめていくとき、皆さんが今はそれでいいではないかとすることのないように。さて、神が「光あれ」と仰せになったとき、光の輝くまでに一秒もなかったということははっきりしましたか。〔声:「はい」〕よろしい。それでは、神の言葉と約束の出現との間に、いくらかでも時が経過したとする人は進化論者です。もしその人が、数えきれない時代にさらに数えきれない時代を重ねれば、それは一日を要したと考える人以上の進化論者であるにすぎません。彼は同じ進化論者ですが、もっとはなはだしいのです。

 次に、神は「大空があるように」と言われました。それからどうなりましたか――そのとおりになりました。神が「……おおぞらがあって、水と水とを分けよ」と言われて、大空があるようになるまでにどのくらい時間がかかりましたか。それは瞬間的になされましたか――そうです。それでは、みことばが語られた時と、事実の存在との間に非常に限りなく長い期間があったとする人は何でしょうか。進化論者。みことばが語られたのと物事自体の存在との間に一日または一時間あるいは一分という時間があったとする人、その人は創造を認識していないのです。

 主が「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」と仰せになった時、また、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」と言われた時、「そのようになった」。それから神は天に二つの大きな光を置き、また星をも造られました。そして神が語られると「そのようになった」のです。「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」と言われると、そのとおりになりました。「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜とはうものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」と神が言われたとき、そのようになりました。神が言われると、いつもそのようになりました。これが創造です。

 おわかりでしょうか、進化論者にとっては、神の言葉をわきにおいて、何の信仰も持たないのは全く論理的であり、十分理にかなっているのです。進化論そのものが創造に対立するからです。進化論は創造に対立し、創造は神の言葉によるゆえに、進化論は神の言葉に対立するのです。もちろん、本当のあるいは本来の正統な進化論者は、みことばに何の立場も与えていませんでした。また、中途半端な進化論者――物事の始めに創造と神の言葉を持ち込む人々――も、同様でした。何事かを造り上げるのには数えきれない、無限とでもいうような長い時間がかかるのだというのが進化論であって、創造とはかけはなれたものなのです。

 真正の進化論者は、創造は瞬間的でなくてはならないと認めています。しかし、彼は瞬間的な行為を信じませんから、創造を信じないのです。創造は瞬問的なものであって、それ以外のものは創造ではないということを忘れないで下さい。もし瞬間的でなければ、進化なのです。それでは最初の時の創造にもう一度触れますが、神が言われるとき、そのみことばの内にはその言葉が言っていることを生みだすための創造的エネルギーがあるのです。それが創造です。神の言葉は、きのうも今日も永遠に同じだということは、永遠に生き続けるということです。神の言葉はその内に永遠の命を持っています。神の言葉は生きているものなのです。その内にある命は神の命――永遠の命です。ですから主イエスが言われたように、それは、永遠の命の言葉なのです。物事の性質の中にそれは受け継がれ、永遠に残るのです。それは永遠に神の言葉であり、その内には永遠に創造的エネルギーがあります。

 ですからイエスは地上におられた時に、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と言われました。イエスが語った言葉は神の言葉です。永遠に続きます。そしてその中に語ったことを生みだす創造的エネルギーがあるのです。

 新約聖書に語られているように、このことはキリストの生涯における多くの出来事によって示されています。私はそれらをすべて引き合いに出す必要はありませんが、一つ二つについて述べてみるつもりです。そうすれば皆さんはこの原則を把握することができるでしょう。覚えておられるでしょうが、山上での説教の後、イエスは下って来て、そこで一人の百卒長に会いました。彼は「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで家に寝ています」と言いました。「イエスは彼に『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた」。その百卒長は言いました、「わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただお言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。イエスはそばにいた人々の方を向いて言われた、「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」

 イスラエル人は聖書を持っていました。彼らは神の言葉を知っていました。彼らは、聖書の民、神の民であることを誇りにしていました。彼らはそれを読み、会堂で、「わが口から出る言葉……わたしの喜ぶところのことをなし」と説教しました。彼らはその言葉を読むとき、それはみな正しい、事はなしとげられねばならない、我々はその必要性を見る、だからそれをしよう、我々がみことばの言うことを成し遂げようと言いました。それから彼らは、それを成し遂げる為に最善を尽くしました。彼らにとって長い時間がかかりました。本当のところあまり長すぎて、彼らは決して成し遂げはしませんでした。みことばを真に行なうことがあまりにも大変だったので、彼らの中のもっとも偉大な人をして次のように叫ばせました、「もしひとりの人でも一日の間律法全体を守ることができれば、そして一つの点においても落度が無ければ――それどころか、もしひとりの人でも安息日遵守に関した律法の一つでも守ることが出来れば――そうすればイスラエルの患難は終わるだろう、そして遂に救い主がおいでになるだろう」。ですから彼らはみことばが言ったことを行ない始めたにもかかわらず、あまりにも時間がかかるので成し遂げることがありませんでした。彼らは何だったのでしょうか。

 「それ(わが言葉)は、わたしの喜ぶところのことをなす」と言った神の言葉がありました。それは創造的な力をもってこのように語られたのです。イスラエル人は、神の言葉の創造的エネルギーを認めると告白したにもかかわらず、彼らの生活においてはそれを度外視して、わたしたちがしましょう、と言いました。彼らは自分たちを、みことばと自分たちが同意する点まで達する過程として見ました。彼らは何だったのでしょうか。皆さんは自分がそのようなところにいたのではないかと言うのを恐れますか。彼らが進化論者であったと言うのを恐れないで下さい。彼らはそうだったからです。それに皆さん方の多くがそうだからです。彼らの方向は創造とは反対でした。創造はなんの関係もありませんでした。彼らは何の被造物をも造りませんでした。新しい生命がその内に形作られたりしませんでした。物事は神の力によって完成されたのではありませんでした。それらはすべて彼ら自身のものでした。彼らは創造を決して信じなかったので、創造主を拒否し、彼を世の外で十字架につけました。それは進化論がいつもすることです。「進化論は創造への直接的反対である」ことを忘れてはなりません。

 さて、イスラエル人の中の信仰について述べられた時、イエスはこのような人々について述べたのでした。ここに一人のローマ人がいました。その男はイエスの教えを無視した人々、ユダヤ人の間で育ちました。その百卒長はイエスのおいでになった場所の周辺にずっといました。彼が話すのを見、彼の言葉を聞き、その効力を見ました。ついに彼は、あの方が何を語ってもそうなる、彼があることを言われるとそれが成し遂げられる、さあ、わたしはその益にあずかろうと言いました。それで彼はイエスのところへ行きました。そして聖書に書かれているように申し上げました。イエスは、事を成し遂げるためにイエスの言葉が持つ力についてその男が考えている事をよく知っていました。ですからイエスは応じられました。「よろしい、わたしが行ってあなたの僕を癒やして上げよう」。ところが百卒長は、「とんでもありません、主よ、あなたはおいでになる必要はありません」と言いました。おわかりでしょうか、この男はみことばの中に何か力があるのかないのかという事をためしていたのです。ですから彼は、「ただお言葉を下さい、そうすれば僕はなおります」と言いました。イエスは、「あなたの信じたとおりになるように」と答えました。「すると、ちょうどその時に僕はいやされた」のです。「そのようになるように」という言葉が発せられた時、その僕はどのくらいかかって癒やされましたか。20年ですか――いいえ。彼が完全に癒やされるまでに多くの浮き沈みを経なければなりませんでしたか。正直に言って下さい。――いいえ違います。みことばが語られたとき、その言葉は語った事を成し遂げました。みことばと同時にそれは成し遂げられました。

 また別の日に、イエスが歩いておられると、一人のらい病人が離れたところからイエスを見て、それをイエスと認めました。彼もまた神の言葉の創造的エネルギーという祝福された真理をつかんでいました。彼はイエスに、「みこころでしたらきよめていただけるのですが」と言いました。イエスは立ち止まって、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言いました。「すると、らい病が直ちに去って、その人はきよくなった」(マルコ1:41、42)。私たちはみことばが語られた時と成し遂げられた事実との間に一瞬もおくことを認めません。「直ちに」そのらい病人はいやされました。

 さて、皆さん、創造の始めの時の神の言葉は、その言葉が発したことを生みだすための創造的エネルギーを内に持っていたことがおわかりでしょう。イエスが命の
 
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